女一人でキャンプすると恐くないか、危なくないかと心配される。「大丈夫、私は襲われないから」と冗談で返せば「襲うなよ」と失礼な答え。
 キャンプは好きで一人でも平気でテントを張りに行く。一人で行っても、周りのキャンパーと仲良くなれば寂しくないし心強い。でも、キャンプ場に私たった一人だったら・・・。以前、沖縄の粟国島で誰もいないキャンプ場に一人でテントを張った。冬の季節風新北風(みーにし)がかなり豪快に吹いていて、夜じゅう木々がざわめき、海がうなった。恐かった。「人って恐怖で死んでしまうことってあるかもしれない」と思うほど。

 今回のキャンプ場も一人かもしれない。そんな予感はあったものの、温泉、天上山登山、シュノーケルを楽しみに神津島に向かう。
 予想通り、季節はずれのキャンプ場には誰もいなかった。でも、旅の始まり、ここでへこんではならない。プライベートビーチ、プライベートキャンプ場と思えばこんな贅沢なことはない。ここで3日間テントを張ろう。炊事場、トイレ、シャワーもそろっていてきれいだし、目の前に広がる海や、エンドレスに続く波のBGMもステキじゃないか。それに一人だから味わえるキャンプの良さもある。
 と、いうわけで10月27日から30日の3泊、伊豆七島の神津島の沢尻湾キャンプ場に一人ですごした。

一日目の夜 一人暗闇の中で

 沈む夕日、満天の夜空を味わうには酒がなくてはならない。しかし、今夜は酒がない。
 船で島に着いたのは朝の10時すぎ。それから観光協会にキャンプ場使用の届けを出し、酒屋を探すがなかなか見つからない。港からキャンプ場に行くバス便は一日5本。どうしても10時半のバスに乗りたかったので、酒はあきらめてしまったのだ。我ながら美味しくできたパスタをほおばりながら、やはり酒は欲しかったと思う。

 街の灯りは少なく、日が沈めば暗闇にのみこまれる浜辺のテント場。街の灯りは少ないはずだ。テント場の道を隔てて建っている巨大ホテルは廃墟で灯りひとつ、ともっていない。ホーテッドマンションのようで気持ちが悪いと思っていたら「ひとりじゃないよ」と知らせるように蟻が足の裏を刺した。ここのテント場で人間は私一人だが、草、木、虫、海にいる魚など様々な命が息づいている。そう思えば独りぼっちじゃない。そんなふうに、弱気な自分を励ましてみる。
 いつものランタンに灯をともし、一人キャンドルナイトだ。嬉しいことに、見上げれば東京では見られないほどの星が瞬いていた。

 酒がないので早々に片付けようと炊事場で食器を洗っていると、「ときこさん」と私の名前を呼ぶ声が。振り返ると、人の良さそうなお兄さんがバイクの横に立っている。
 キャンプ仲間の「シマ部」のブログに神津島情報を書き込んでくれた、地元の「神津人」さんが訪ねに来てくれたのだ。キャンプ場の近くのビアの自動販売機の場所、炊事場の電気のスイッチ、ブログで話題になっていた「基寿司」は今やっていないことなどありがたい情報を教えてくれた。ちょっと心がほっとした。旅の出会いはいつだって嬉しい。
 昨晩、船の中でゆっくり眠れなかったし寒かったので、早めにテントに入り眠る。夜の7時過ぎには寝てしまい、もう充分寝たと思い起きたらまだ、夜中0時半くらいだった。いつも5時間睡眠だからこの時間に自然に起きても不思議はない。
 でもこんな夜中に起きていても仕方ないと、再び寝ようとするが寝付けない。物音や気配にかなり敏感になっている。テントをパタパタとはたく音はロープにかけておいたパレオだ。恐くないぞ。その他に聞こえる足音。おかしい。この時間に足音はするか?猫かな、お化けかな?想像はふくらみやはり恐い。それより何より、テントの後ろのホテルの廃墟が気になる。
 ようやくちょっと寝たとしてもおかしな夢を見て起きてしまう。そんな夜をすごし、何回目かに目をあけた時、外が明るくなっていることに気づく。テントのジッパーをあける。静かな海が広がり、薄水色の空に朝焼けで染まったピンクの雲がうかぶ。昨晩の恐さを忘れ、やはりキャンプって最高と思う。
いい天気だ。今日は天上山に登ろう。

二日目 夜中の訪問者

 天上山からもどり、今日こそは街で酒を買い、温泉で汗を流して宴会だと思ったら雨が落ちてきた。軟弱キャンパーの私は屋根のある炊事場までテントを引きずりこんだ。これで濡れない。雨も気にならない。ちょっと恐かったホテルの廃墟からも遠くなる。
 サラダ菜をちぎり、魚の缶詰をあけ、島の焼酎「盛若」をお湯で割って飲む。冷えた体に染みわたる。しみじみとうまい。
 足元ではフナムシがいっぱい這っている。でも、気持ち悪い、あっちへ行けなんて思ってはいけない。私がフナムシの住処に今夜、お邪魔しているだけだ。テントのジッパーを閉め忘れたのか、テントの中にもフナムシがはいってきて寝ている私の顔を這う。そんなことを気にしていられない。いっぱい歩いて酒を飲んだ私はまたすぐに寝てしまった。

 それなのに夜中11時くらいに起きてしまった。何かやばいという気配をしっかり感じた。そしたらすぐに車のヘッドランプがテントを照らし、男の声がした。「大丈夫か」。恐い。男の声におびえてぜんぜん大丈夫ではない。
 「テントが風に揺れていたから」と男は言うが、電気が消えているテントにこんな夜遅くに声をかけるか?きっと私がテントの近くに不用意に干したピンクの水着に反応して声をかけたのではないかと思った。油断していた。女を宣伝するように、水着を干して寝てしまった私は大馬鹿者だ。私を見て襲いたい人はいないと思うが、かわいいピンクの水着を見て、発情する男はいるかもしれない。
 「いつ帰るのか」「風邪をひくなよ」などの声かけにのらず、「観光協会の人ですか?警察ですか?○○さん(昨晩会った神津人さんの名)ですか?」と言い放つ。「大丈夫です。ありがとうございます」と言ったら帰ってくれた。
本当は親切に心配してくれたのかもしれない。テントのジッパーを開けて顔を見なかったからわからない。でも、声の様子では恐いと感じた。この感覚は大切だ。
 ジッパーを開けたほうが良かっただろうか。もしその人が恐い顔をした大男で、ヨコシマなことを考えている人だったら、その雰囲気に呑まれ、何も言えなくなってしまったかもいれない。やはり、男の姿を見ないでよかった。とにかく去ってくれた。助かった。でも、ずっとドキドキしている。
 あんなに恐い思いをしたのに、その後また寝てしまった。そんな自分に呆れる。

 朝起きたらまだ雨が降り続いていた。今までキャンプで雨に降られても、屋根のあるところに避難したことはない。テントが濡れ、床にうっすらと水が染み、置いてある荷物がジトッと湿る。そんな状況でも、マットを敷いていれば寝ていて冷たいと感じたことはなかった。しかし、昨夜は雨には濡れなかったが、背中が冷たく硬く感じ寝心地が悪かった。コンクリートの上に寝たせいだ。つくづくと大地の暖かさと優しさを感じる。今夜はまた土の上で寝よう。

研ぎ澄まされていく

 幽霊と人とどっちが恐いか。私は昨晩のような男の訪問はもうまっぴらだと思った。だから、駐車場の近くの炊事場を離れ、一日目のテント場にもどった。後ろのホテルの廃墟は気味が悪いが、昨晩の男よりは恐くない。
 今日は夕日を見ようと早めに温泉からでてテント場に戻る。それなのに、雲が多く太陽が顔を出してくれない。結局「明日見ればいいや」と思って見逃していた、一日目の夕日が一番晴れていてすばらしかったのだろう。
 今日の夕日は今日だけのもので、明日は見られない。都会ではあらためて夕日を眺める機会はないが、空や太陽は毎日違う風景をプレゼントしてくれている。そんなことを、雲の間からちょっとだけ覗いた赤い夕日に教えられた。
 今夜も波の音のほかに、人の声やテントをパタパタたたく音が聞こえる。足音がしないのに何で人の声が聞こえるのだろうなんて、深く考えてはいけない。ちょっと恐くなるから。

 一人ですごす夜は確かに恐い。でもこの3日間のソロキャンプでより耳がよくなり、物の気配を察する感覚が鋭くなったように思う。暗闇の中で全感覚を使って危険を察する。命あるすべてのものを身近に感じる。大地のぬくもりや夜明けのありがたさを味わう。その感性は、まだ自然の中で暮らしていた頃の私の祖先から引き継いできた野生の遺伝子に因るものなのか。
 日常生活で使わない感性がキャンプによって引き出される。それは自分が知らない能力や可能性がまだあるようで、嬉しい発見だ。

 こんな能力がせっかく引き出されたにもかかわらず、東京に帰るとまたいつもの日常が待っている。
竹芝桟橋に近づく船上から見た都会のイルミネーションは、キャンプ場の暗闇や人間以外の命などを微塵も感じさせない。私はこれからまた、このクレージーな都会を常としてすごすのだと思うと、せっかく身についた野生の感性が衰えてしまうのではないかとちょっと残念に思った。
 しかし、都会では感じにくくはなるけれど、おどろおどろしい暗闇や朝日の力強さや大地の温かさは消えることはないはずだ。都会にいても早起きして朝日を浴びよう、電気を消したときの暗闇を感じよう、命あるすべてのものに目を向けよう。せっかく研ぎ澄まされた野生の感性が衰えていかないように。
                              同人誌VELO12 vol.6 掲載


 
夜の恐さが
      教えてくれるもの

  

               〜呼び覚ませ野生の感性〜
              

                               うさぎひめ

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